「歴史の都、京都の汽車」
「歴史の都、京都の汽車」 前書き…昭和45年・13歳の田中猛雄
「歴史の都、京都の汽車」という旅日記は,今から42年前の1970年(昭和45年)当時中学2年・13歳の鉄道少年だった私が,当時のクラス誌に載せた思い出の文章である。
拙い文章だが、暇な時間をみつけて何回かに分けて原文のママ記してみたいと思う。 (文章の拙い点は13歳という事でお許し下さい)
何故その様な昔の旅日記を今書きたいのかというと、今でもあの興奮を思い出すと,34年前の素直でけなげな自分にタイムスリップ出来るし、いつまでもあの時のような感動できる青春の自分を残しておきたいが為でもある。
私の今までの人生で一番の思いでの曲は「京都慕情」という曲で、(1970(S.45)年・渚ゆう子の大ヒット曲「ベンチャーズ」が作曲)この曲を聞く度に、13歳の京都の一人旅をいつも懐かしく思い出します。
あの人の姿 懐かしい
黄昏(タソガレ)の 河原町
恋は 恋は 弱い女を
どうして 泣かせるの
苦しめないで ああ責めないで
別れのつらさ 知りながら
あの人の言葉 想い出す
夕焼の高瀬川
遠い日の 愛の残り火が
燃えてる 嵐山
すべて すべてあなたのことが
どうして 消せないの
苦しめないで ああ責めないで
別れのつらさ 知りながら
遠い日は 二度と帰らない
夕やみの東山
苦しめないで ああ責めないで
別れのつらさ 知りながら
遠い日は 二度と帰らない
夕やみの桂川
Ⅰ・出発,銀河2号の車内で
かねてから予定していた関西・汽車の旅を実行に移そうと,昭和45年12月21日の午後、学校の事務課でなんとか学割をもらい、(普通は直ぐにはくれない)家に帰って直ぐに支度にかかり20時45分,世田谷・上馬の家を出た。
東京発22時40分の急行銀河2号姫路行きに乗る事になっている。
切符は京阪神周遊券という便利な代物である。(7日間有効 3500円)
それは、京阪神地区の国鉄は何回乗ろうと自由なのである。それに、僕がこの銀河2号を選んだのは,京都にちょうどよい時間に着くし,周遊券だと普通急行の自由席を利用できるという点である。
22時頃に東京駅に着いた。自由席の乗車位置には行列が出来ていた。僕は最後尾の13両目の一番前の席に陣取った。発車の20分くらい前に父が見送りに来てくれた。
22時40分、定刻発車である。牽くのはEF58 138(宮原機関区所属)である。
この銀河2号の停車駅は京都まで、品川、横浜、大船、小田原、熱海、静岡、浜松、豊橋、岡崎、名古屋、米原、大津、そして京都の13駅である。
なお、浜松に17分の停車は、特急貨物列車(EF58、EH10)等の待ち合わせをする為である。
東京~京都の所要時間は6時間26分で、ひかり号の2時間50分,こだま号の3時間50分に比べればかなり遅い。
列車は姫路へと向かう。東京からの乗客は定員を少しオーバーしていて、デッキに立っている人も少々いる。東京から順々に乗客を拾っていく。
車内では,明かりがついているのと、窓から隙間風が入ってくるので眠れなかった。それにひょっとして,掛川,豊橋,名古屋,稲沢,大垣,草津などで停車中の蒸気機関車(SL)がみられるかもしれないので、興奮して眠れなかった。
列車が国府津を通過する頃,扇状型のSL車庫がちらっと見えたので、そこに視線を置いていたら、車庫の中に一両のD52が見えた。
43年3月末で,無煙化の為、御殿場線のD52は消えたが,一年以上経った今でも残っているとは…。
平塚や山北で保存されたり、工場で解体されたりしたので、国府津にはもうないとばっかり思っていたので,もうけものである。
車庫の明かりがD52のボイラーに反射してとても美しく光っていた。しかし列車が高速の為,はっきりと見る事は出来なかった。
列車が小田原を発車してから少し眠くなってきたが,掛川で蒸気機関車が見られるかもしれないという気持ちがあり、起きていた。
列車は掛川へ近づいてきた。2時を少し廻った所である。時速90キロ位で掛川を通過した。
しかしSLは見えない。
前もって調べておいたダイヤでは、C58が18時24分から4時54分まで、ここで停車しているはずである。
注意深く外を見ていたら,駅から離れた所に、C58が少量の煙をはいて休んでいた。
運転室の部分が裸電球で綺麗に光っていたのがとても美しかった。
これが今度の旅行で見た初めての現役SLである。
浜松で17分停車の後,外気の温度が低い為、窓ガラスが白くなり,車内の電燈が写り,外を見るのが大変だった。
豊橋までの30分足らずの時間に浅い眠りについた。
目を覚ますともう豊橋である。プーンと石炭の匂いがする。しかし姿は見えない。この豊橋には、駅、機関区入換用のC50が3両とC58が1両いるはずである。しかし、これらのSLも46年3月の二俣線DL化で不帰の途につくだろう。
結局SLを見られないまま列車は豊橋を発車した。
岡崎に停車した後,4時48分に名古屋に到着した。
名古屋では稲沢一区のD51が見られるかもしれない。このD51は関西本線の名古屋~亀山間の貨物列車の輸送にあたっているが、もうまもなくDL化されてしまう。
旅客列車の方は、44年10月の改正で、SLからDLになった。
外を眺めていると汽車は見えなかったが,駅弁を売っているのが見え,急に腹が減ってきて早速買った。
駅を発車してから3分もしないうちに平らげてしまった。
また外を眺めていたら大きな操車場が見えてきた。
稲沢操車場である。東の新鶴見、西の吹田、そして中央の稲沢と呼ばれている位である。
嬉しい事に,操車場の隅に、D51らしきものが2、3両かたまって休んでいた。45年10月までは、D51、9600、C50などがいたが,10月の改正で9600は無くなってしまったかもしれない。
隣にいる青年は大いびきをかいて寝ている。しかし僕は興奮して眠れなかった。(余り興奮すると鼻血が出てしまう)
稲沢の次に汽車が見られるところは大垣である。大垣にはC11がいて、樽見線の貨物に使われている。それに普通は黒のナンバープレートが、大垣のC11の場合は緑色だということなので少々興味があったが、運悪くまたも汽車は見られなかった。
大垣から後は、草津でD51、C58などが見られるはずだが、京都までの約1時間半を寝ることにした。
ふと眼を覚ますと列車は大津を発車していた。まもなく7時である。京都まであと6分足らずなので下車の用意をした。しかし今日は運悪く12月22日、冬至なので、7時をまわってもまだ日は昇っていなかった。
車掌の車内放送が始まった。
「おはよう御座います。まもなく京都で御座います。お忘れ物の無いように願います。接続列車のご案内を申し上げます。
東海道線上り名古屋方面は,7時18分発能登川行き、12分の待ち合わせ1番線へ。下りは16分発相生行き、10分の待ち合わせ。なお、吹田,大阪方面は、2、4番線へ。奈良線、宇治、奈良方面は7時30分発桜井線経由王寺行き,8番線へ。山陰線、福知山方面は7時50分発綾部行きにお乗り換え願います」
車内放送が終わると列車は薄暗い京都の町に到着した。
Ⅱ 歴史の都 京都の汽車
「京都~ 京都~京都で御座います」
僕は急いでホームに降りた。
カメラ,列車ダイヤ等は別にして、その他の荷物を小荷物預かり所へ預けた後、すぐに駅に入り,山陰線0番ホームへと向かった。
ホームには、1822列車を牽いて来たC57 39が、スッポン,スッポンというエアーコンプレッサーの音をたてながら止まっていた。
直径1750ミリの大動輪、2C1の車軸配置、パシフィック機と言われるに相応しい美しい形をしている。C57は昭和12年に本線旅客用に作られ、全長20m20cm、全幅2.9m、全高3.9m、総重量116.15トン、軸重14トン,馬力1040馬力、許後容速度100km全部で201両作られた花形SLである。
つい最近まで両国に姿をみせていた。
C57 39は客車を切り離した後、単機逆行で梅小路機関区へと向かっていった。
そのあと、赤色のDD54の牽く832列車がホームに入ってきた。山陰の0番ホームでは、ディーゼルカーが発車を待っていた。7時45分頃、C57 5の牽く1824列車が、客車8両を牽いて入ってきた。
125Dはもうまもなく発車である。駅でC57 5を撮った後、すぐに125Dに乗り込んだ。この列車は京都から4つ目の嵯峨駅で、C57の牽く1828列車と交換があり,その為僕は3つ目の花園で降り、走行中のC57を写すことにした。
列車は一路花園駅に向かった。途中、丹波口の少し手前で、かつては東海道、山陽という国鉄の二大幹線の大一線機関車を擁した由緒ある梅小路機関区が見えた。
この機関区には常にその時代の最新鋭機が配属され、東海道、山陽にブラストの音を響かせたという名門機関区である。それに、SLの動態保存が決まった機関区である。
僕は花園駅で降り,良い場所はないかと10分位探したら、畑があり、そこにポジションを置いて、1828列車の来るのを待った。
2~3分たって、C57 89の牽く列車が安全弁から白い蒸気を出して進んできた。しかし上り列車は下り勾配の為、煙は吐かなかった。
天気が悪く,小雨も降っていたので、きっと写真はぶれてしまうだろう。
僕は保津峡、馬堀間の撮影地に行く為駅に戻り、C57の牽く1823列車を待った。
蒸気機関車の牽く列車に乗るのは、5~6年前に館山へ行く時に、両国から乗ったとき以来である。心がウキウキする。
まもなくC57 127の牽く列車がホームに入ってきた。僕は1両目の一番前の席を陣取った。
汽笛一声,出発進行。「ボワー、シュ、シュ、シュ、シュ」C57 127はゆっくりとしたブラストを響かせて出発した。
僕はすぐ窓を開け,機関車の方に目をやり、ついでに煙の匂いもかいだ。なんともいえないいい匂いである。
車内には担ぎ屋の叔母さんが5~6人いるだけで、マニアの姿は見えない。普通の学校の終業式は25日なのでマニアの姿が見えないの最もだろう。(当校は21日であった)
列車は段々とスピードを増し、C57は思い出した様に警笛を鳴らす。窓から顔を出していた為、煙と黒い油の固まり(シンダという)が顔にあたって痛かったが,何故かこの油煙の固まりを愛らしく感じる。それにしても蒸気の匂いはいつかいでも良いものである。『旅行に来た』という実感が湧く。
あたりは段々と田や畑が多くなってきた。発車して6分、列車は嵯峨駅に着いた。外は雪がちらついて,太陽は顔を出していない。
嵯峨を出た列車は,左手に嵐山を眺めながら進んでいく。僕はデッキに出て汽車のブラストの音を聞いた。煙が頭上を通り過ぎていく。
汽笛が鳴ったかと思うと,列車はトンネルに突入した。物凄い熱気が体中で感じる。あたりは煙で目の前が見えない。僕は慌てて席に戻った。夏は汽車の煙で乗客が苦労すると聞いたが,本当に凄いものである。5~6年前にこの様な体験をした記憶がある。
列車はトンネルを抜け,山あり谷ありの入り組んだ地形の所を進行して行く。僕はまたも窓を開けて前方のC57を眺めた。列車が保津川に掛かる大きな緑色のトラス橋を渡ると、またトンネルが見えてきた。
思わず窓を閉めた。急に窓の外側を煙が通っていく。隙間から煙が入ってきて,少々息苦しくなった。
後ろの席にいる人達は不満げな顔をしていたが、僕はなんとも思わなかった。
トンネルを過ぎると保津峡である。この駅は崖と川に挟まれ,とても粋な造りをしていて、駅前にある保津川に掛かる大きな吊り橋が見えた。少し降りてみたがとても寒く、直ぐ車内に戻った。
9時5分、定刻に列車は発車した。汽車は勾配を登り,モクモクと煙を吐いて走っている。
駅を出たとたんにトンネルだ。デッキにいた僕は慌てて車内に戻った。右手に愛宕山と保津川が見える。
しかし霧の為,山は大部分が霞んで見える。冬だからまだしも,夏だと窓を閉めたり開けたり大変だろう。
それより,汽車の機関士,機関助手は,いくら仕事とはいえ物凄い煙と熱気に挟み撃ちにされ,煙をモロにかぶるのでさぞ大変だろう。梅小路のカマは集煙装置が付いていないので尚更である。
二つの長いトンネルを抜け,列車は馬堀駅に到着した。僕はホームに降りて,汽車の所まで走り寄った。
助手は投炭していた。機関士は煙で苦しめられたので、美味い空気を腹一杯吸っている様である。
駅員が機関助手に合図を送った.C57 127は煙をモクモクと吹き上げて発車を待っている。
僕は発車の場面を写そうと駅の端でカメラを構えた。「ボワー、シュ、シュ、シュ、シュ」五気筒の汽笛が響いた。
朝の清々しい雰囲気を掻き消すような物凄い煙と蒸気を吐いて、一路園部へと向かっていった。
僕はいつまでも汽車を見ていた。姿は見えなくなってもブラストの音は辺りの山にこだまして聞こえる。寂しげな汽笛を鳴らして遠ざかって行った。発車時の物凄い黒煙が駅を覆っている。
やがて汽笛の音が聞こえなくなると,急に寒さが身に凍みて来た。霧のせいで薄暗く,太陽も見えない。
Ⅲ 撮影の楽しさ
駅の待合室に行くと,汽車マニアが4人いた。
マニア同士で色々話をしている。待合室には練炭が一つしかないので、ちっとも暖かくない。
寒いのですぐ便所に急行した。便所の鏡を見てびっくり、顔が真っ黒である。特に鼻が…。ただでさえ黒人と言うあだ名が付いている僕なのに,黒人もびっくり驚く黒さ。煙とシンダである。
カッコワル~イッ。水で顔を洗ったが、今は真冬,水がモロに染みる。しかし我慢して洗ったので、やっと今までのハンサムな顔(?)が表われた。
今度のSL列車は11時15分頃の下りなので,2時間も時間がある。
待合室に戻り,マニアの中の一人を話を始めた。その人は高校生で京都に住んでいるそうだ。彼とSLの雑談を2~30分してから,練炭で手と足を暖めた。
さっきの小雨からいつのまにか霧雨に変わっていた。東京とは比べものにならない寒さである。氷点下には達しているだろう。
他の3人のマニアも関西人らしく,東京では余り耳にしない方言を使って話していた。
10時半頃,京都の高校生M君が,良い撮影場所を教えてくれると言うので一緒に行くことにした。とても親切で優しい人である。M君は今日の7時にこの馬堀駅に着き、京都寄りの田んぼから862貨物列車を撮ったそうである。
牽引車は福知山区のD51 499だったそうである。
D51は、デゴイチとして皆に知られている機関車で、昭和11年に貨物用に1115両も造られた。車軸配置が1 O 1で、ミカド機関車と言われている。
全長約20m,全幅はC57と同じ、全高4m、動輪直径1,4m、最大馬力1280馬力、総重量125,77トン,軸重15トン,許容速度85km,国鉄標準のSLである。
去年の10月の東京駅サヨナラ列車を牽いたD51 791は記憶にあたらしいところである。
このD51 499は、非常に珍しい後藤デフ付きの機関車で,僕はこの機関車を見たいと思っていた。
だが、863列車で福知山に帰ってしまったので、今日はもう見られない。残念だ。
僕とM君は,京都寄りに7~800m歩いていき,良い場所を見つけた。そこにカメラを据えて列車の来るのを待った.M君はかっこいい望遠レンズを取り付けた。
15分位してから,遠くから汽笛が聞こえてきた。やがて煙も見えてきた。
霧雨の為レンズが濡れるので、それを拭きふき汽車を待った。馬堀駅はこの霧の中でもどうにか見る事が出来る。
駅を発車した列車は、僕達の方へ猛然と向かってきた。もちろん視線は汽車に釘付けで、シャッターを押す手が震えてきた。
『カシャ』思わずシャッターを切った。急に今までの緊張がほぐれた。そして通り過ぎていく列車を眺めた。
この1830列車は、さっきの園部行1823列車の折り返しで,機関車も同じC57 127であった。
良い写真が出来そうだ。M君も満足そうな顔をしている。
今度は二人で別のポジションを探しに今の場所を離れた。歩きながらM君は、「話さなかったけど,この前あそこで、垂れ流しを浴びちゃったよ。」と指を差した。僕は一瞬ホッとした。さっき写した場所の直ぐ側である。浴びなくて助かった。
次に来る列車はD51牽引の883貨物列車である。約50分後にやってくる。
今度は近くの山に登って、俯瞰撮影することにし、早速登った。目的地まで行ってはみたが,霧が濃く、どうにかこうにか線路が見える程度である。しかし霧の中を行くSLも情緒があって良いだろうと,ここで撮ることにした。
まだかまだかとM君と僕が勢い込んでいる内に、『ピーッ』というディーゼル機関車の汽笛が聞こえてきた。運悪くDD54の牽く貨物が僕の眼下を通過していった。ダイヤではD51牽引と記されているのに…,悔しくてたまらなかった。無煙化計画もついにここまで来たか。
DLに牽く貨物列車なんて、てんで様にならない。なんといってもSLである。
その後直ぐ,京都行きDF50の牽く922列車が通過していった。
しかし僕達は次に来る不定期の6886列車に運命を託したが,何と言っても不定期なので来ないかもしれない。いや、今は年末で荷量が多いのできっと来る。などという考えが頭を横切る。
その時、『ポーッ』というデゴイチの汽笛が聞こえた。
来るぞ。胸がワクワクしてきた。M君もホッとした表情である。
D51はC57よりもグンと多くの煙を吐きながらやって来た。ゆっくりとしたブラストを響かせて…。
僕は枯れ木の隙間から続けてシャッターを切った。僕は堪能した。例え写真が写っていなくても諦めはつくだろう。
僕は段々と調子に乗ってきた。次のSLは約1時間後に来る京都発,福知山行の923列車である。今度は再度線路際で撮ることにした。
垂れ流しなどはなんのその、来るなら来い,洗えば済む!
今度は背景に愛宕山を入れる事にした。いつのまにか霧雨は止んでいたが,霧は一向に晴れない。
愛宕山は薄く霞んで見えていた。M君と一緒にカメラポジションを決め,後は列車を待つだけである。
「あっ、煙だ!」M君が大声をあげた。来た,来たC57だ。.BODYが黒光りしている。5番である。梅小路のカマはピカピカに磨かれている事で有名だが,その中でも特に美しく,原型に近いC57 5である。
少々下り勾配なのでスピードがいささか速い。ブレる心配があるので早めにシャッターを切った。
C57は僕の横を高速で通り過ぎて行った。
客車では、ファンらしき中年の叔父さんが両手を振っている。こっちも両手を振り応じた。
その後列車も来ないので、M君と相談の結果、梅小路機関区に行くことになった。
Ⅳ 梅小路機関区へ
馬堀駅に向かい,14時20分の京都行に乗り込んだ。
車内の暖房がとても暖かく、睡眠不足の為、急にウトウトとしてきた。
それに牽引はSLではなくDF50なので,窓を開けて前方を見るといった気は起こらなかった。
DLはSLに比べるとやはり乗り心地が良い。
僕とM君は椅子にゴロ寝した。他の人は誰もいないというガラすき状態なので、遠慮することはない。
ふと眼を覚ますと、列車は二条を発車した所だった。外はザーザー降りの雨になった。
癪に障るけど,撮影中に降らなかった事を思えば,幸運である。
僕達は丹波口で降り,京都寄り100メートルの所にある梅小路機関区に着いた。コンクリートの扇形のSL車庫が見える。
早速当直助役さんの所へ行き、撮影の許可を求めたが、助役さんは、「入れたいのはやまやまだが、ナンバープレート、ネジといった機械類が盗まれる事が起きているので、お引き取りください」と親切に語ってくれた。
残念だったが,直ぐ諦めがついた。国鉄にしては、大切な職場が荒らされるし、業務に支障するから、最もだろう。
しかたがないので、扇状車庫の外側から、C57、8620、C11等のSLを撮り,M君と土砂降りの中を京都市電に乗り込み、京都駅に向かった。
市電はワンマンカーという味気ないものになっている。
駅で休息した後、奈良線のC58等を写してから,山陰線のホームへ行き,16時59分発の園部行の牽引機を見に行った。
20分位した後、C57が梅小路から逆向きで単機回送されてきた。
さっきのC57 127であった。側に歩み寄ってみると、30年以上働いただけあって傷だらけである。
ナンバープレートの下のある製造プレートを見ると、『三菱造船所製造,第277号,昭和15年』と小さく書いてあった。その左には『梅』という区名板が入れてあった。
一緒に見ていたM君が、「もう遅くなってきたから,ここで別れよう。今日はとても楽しい1日だったよ。君の事は
忘れないよ。今度は春休みに会おう。じゃあ,サヨウナラ。」と言った。僕はその言葉を聞いて何か込み上げて来るものを感じた。僕も、「とても楽しい1日だったよ、いつかまた会える時が来たらね。サヨウナラ。」と言ってM君と別れた。
考えてみれば、名前も住所も聞いていないM君であった。
知っている事は高校生で、京都に住んでいるという事だけなのである。文通でもしたかったなぁ。
たった7時間余りの出会いだった。M君がいた為に,今日の旅が楽しく出来たといっても過言ではない。有難う、M君。
僕は、1827列車の発車を見送って,歴史の都、京都を後に,一路大阪の親類の家へ向かった。
もうクタクタだった。
その後僕は、大阪見学を兼ねて、関西本線や和歌山線のSLを求めた。また、五条,草津,王寺、奈良、木津、竜華などの機関区、駅、駐泊所へ行った。そこでも威勢のいいSLの姿を見る事が出来た。C57、C58、C11、C12、8620、D51等。
12月27日に東京へ戻った。途中の亀山では去年まで小山にいたC50 154、八王子にいたD51 646が入替えをやっているのを見る事が出来た。
おわり