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佐渡

2014年5月 両津

2015.08.03

2014年5月 佐渡・畑野

2015.08.03

佐渡についての知識

2015.08.03

佐渡についての知識。
①佐渡はどんな島か
②佐渡の歴史について
③佐渡の文化について
④佐渡の交通事情について
 
①佐渡はどんな島か
 
この島は日本海にぽっかりと浮かび、沖縄本島に次いで、日本で2番目に大きな島だそうで、広さは854平方Km、東京23区の1、5倍あるという。
平成16年3月1日、 1市9町村が合併し佐渡市となる。

海あり山 あり平野ありで、訪れる人のほとんどがあまりの大きさに驚くという。
一番高い山は金北山で、1173mもある。
気候は、佐渡沖を流れる対馬暖流の関係で、冬は暖かく夏は涼しい。
人口は約7万人。昭和25年には12万人もいたが、過疎化の現象は佐渡も例外ではなく、今は小学校36校、中学校17校、県立高等学校6校があるそうだ。
本土から佐渡に渡るには、船で3ルートがあり、 新潟ー両津、直江津ー小木、寺泊ー赤泊である。
大型のカーフェリーや高速船のジェットホイルが運行されている。

 

 

 

佐渡の文化の歴史は、この島独特のもので、国分寺をとりまく真野周辺の王朝文化、羽茂や河原田などの城跡をめぐる中世の武家文化、さらに佐渡金山隆盛につれて流れ込んだ江戸文化などがあげられ、これらのものが一体となって現在のような独特の「佐渡文化」が形成されてきたようである

それは、能 ・文弥人形・鬼太鼓・おけさなどの無形文化財をはじめ、たくさんの寺々や能舞台・野仏等にも見ることができるだろう。

 

 

 

農業は米作りが中心だが、果樹栽培も盛んで、特産のおけさ柿がトップ。

西三川産のリンゴもおいしく、青森や長野県のリンゴに劣らないという。
佐渡は3分の2が山林で、寒暖両系の植物分布がみられるため森林資源が豊富である。そのため、シイタケ栽培も盛んで、生産量は県でも多い方である。

 

 

 

水産業は大小39の漁港を基地に、ブリやマグロ、エビやカニ、イカの漁獲量も多い。

カキやワカメの養殖も盛んに行われている。

 

 

 

精密機械工場や縫製工場も各地にあるが、酒蔵や佐渡味噌工場の存在も大きく忘れてはならない。

工芸的なものには、竹細工と窯業があり、「無名異焼」が有名で全国に知られている。
 
②佐渡の歴史について
佐渡も日本の他の地方と同じように島内各地の遺跡から1万年以上も前の古代から人が住んでいたことがわかっている。
佐渡にはっきりと本土から人や文化が入ってくるのは、日本が国として出来あがった8世紀ごろから。
佐渡はすでに一国として、750年ごろに国府が置かれ、国司も派遣された。佐渡市国分寺の国分寺、佐渡市小比叡の蓮華峰寺、佐渡市長谷の長谷寺などの存在がそのことを物語っている。
そのころから、伊豆や隠岐とともに佐渡が遠流の島と定められた。
養老6年(722)万葉歌人の穂積朝臣老が佐渡に流されて以来中世までは、流人のほとんどが政争に敗れた人たちだった。
その数76人といわれ、彼らの都での生活ぶりがいろいろな形をとって佐渡に伝えられたといえる。

 

 

 

佐渡が歴史上にクローズアップされるのは、やはり佐渡金山の発見からといっていい。
佐渡は古くから金や銀の出るところとして知られていたが、徳川家康は佐渡金山の有望性に目をつけ、天領として金山開発をすすめた。そして最盛期の17世紀初めには世界一といっていい生産量を誇った。

それまで寒村だった相川は4万人もの大きな町にふくれあがり、金の積出港として小木も栄え、そこを窓口に新しい文化も流入した。
幕府の財政を支えてきた金山も、江戸末期にはすっかり衰え、明治になると日本が世界の仲間入りしたのにひきかえ、佐渡は金山とともに時代に取り残されていった。
佐渡の玄関口だった小木や赤泊の港も次第にさびれ、変わって両津港が発展するようになる。
両津港は、安政5年(1858)の日米通商条約で開港した新潟港の補助港に指定されてから、佐渡の表玄関として登場し、いまや両津航路は佐渡へのメインコースとなっている。
このような新しい時代の流れの中で、島民は苦難の道を歩むが、そんな中でも多くの優れた人材を生み育て、歴史遺産をかたくなに守り、美しい自然を残してきた。
このことは、人間の文化とは何かという永遠の問いかけを、島民一人ひとりが体で表現してきたものだといえるかもしれない。
 
③佐渡の文化について
一般的に佐渡は、北陸や西日本の影響を強く受けているといわれる。
古くから流人(貴族)が京からきたことや、西回り航路が開かれてから西日本や北陸の文化が直接佐渡に運ばれたことによる。
そして佐渡の文化の中には、流人たちがもたらした貴族文化(国仲地方)、金山の発展で、奉行や役人たちが江戸からもちこんだ武家文化(相川地方)、商人や船乗りたちが運んだ町人文化(小木地方)の3つの形があるという。
これらが混然一体となって、佐渡独自の文化をはぐくみ、同じ新潟県でも対岸の越後とはまったく異なった文化土壌の中にあるとはいえそうだ。
「佐渡は日本の縮図」などといわれるのも、気候・風土とともに、文化の面でもいえることのようだ。

 

 

 

江戸時代、越後をめぐる街道の整備は佐渡の金銀を、経済・交通の中心となった江戸へ輸送することにより開始され、大久保長安によって出雲崎・高田を経て信州で中山道追分を結ぶ北国街道の開設が計画され、元和年間(1615~24)に完成。さらに出雲崎、寺泊から長岡、六日町を経て中山道高崎宿を結ぶ三国街道が整備されたそうだ。
また、奥州街道白河から会津、津川、新潟、出雲崎に到達する街道が整備され、信州越え・三国越えとともに三道とよばれたという。
また佐渡金銀山を舞台に海運が隆盛を見せたのも江戸時代。
米は越後・出羽・酒田・津軽・越中伏木・能登から、材木は越後や秋田から積み込まれ、鉄や油、水銀、生糸、薪、炭、塩などは敦賀から回送され、人の往来には越後直江の津・出雲崎港が使われ、佐渡の小木港は慶長19年(1614)、出雲崎への金銀の渡海場に指定され繁栄期を迎えたそうだ。


④佐渡の交通事情について
両津、佐和田、金井、真野、小木、相川等の主要な街以外は信号が極端に少ない。
普段、渋滞しか知らない都会ドライバーにとってはとても走りやすく感じるだろう。
だからと言って飛ばしてはいけない。おじいちゃんやおばあちゃんが突然出てきて道を横断、なんてことがあるからだ。
集落の道は速度を落とす必要があるのは言うまでもないが、怖いのは朝方。しかも4時とか5時の早朝である。
老人の朝はとてつもなく早い。農作業に出かけるのか、歩いている老人を見かける。交通量より人の方が多い。
次に注意しなければならないのは地元軽トラ。
佐渡の人にとってはもう下駄代わり。ウインカー出さないで突然右折し田んぼのあぜ道に入ったり、道路に停めて田んぼの手入れに行ったり、後ろを走っているとのどかな道といえど油断はできない。
最後にガソリンの問題。佐渡のガソリンスタンドはたいてい6時、遅くても7時は閉まる。
24時間のスタンドはどこに行っても無い。

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