佐渡
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2015.08.03
佐渡についての知識
2015.08.03
平成16年3月1日、 1市9町村が合併し佐渡市となる。
海あり山 あり平野ありで、訪れる人のほとんどがあまりの大きさに驚くという。
気候は、佐渡沖を流れる対馬暖流の関係で、冬は暖かく夏は涼しい。
人口は約7万人。昭和25年には12万人もいたが、過疎化の現象は佐渡も例外ではなく、今は小学校36校、中学校17校、県立高等学校6校があるそうだ。
本土から佐渡に渡るには、船で3ルートがあり、 新潟ー両津、直江津ー小木、寺泊ー赤泊である。
佐渡の文化の歴史は、この島独特のもので、国分寺をとりまく真野周辺の王朝文化、羽茂や河原田などの城跡をめぐる中世の武家文化、さらに佐渡金山隆盛につれて流れ込んだ江戸文化などがあげられ、これらのものが一体となって現在のような独特の「佐渡文化」が形成されてきたようである
農業は米作りが中心だが、果樹栽培も盛んで、特産のおけさ柿がトップ。
水産業は大小39の漁港を基地に、ブリやマグロ、エビやカニ、イカの漁獲量も多い。
精密機械工場や縫製工場も各地にあるが、酒蔵や佐渡味噌工場の存在も大きく忘れてはならない。
佐渡にはっきりと本土から人や文化が入ってくるのは、日本が国として出来あがった8世紀ごろから。
そのころから、伊豆や隠岐とともに佐渡が遠流の島と定められた。
佐渡が歴史上にクローズアップされるのは、やはり佐渡金山の発見からといっていい。
佐渡は古くから金や銀の出るところとして知られていたが、徳川家康は佐渡金山の有望性に目をつけ、天領として金山開発をすすめた。そして最盛期の17世紀初めには世界一といっていい生産量を誇った。
幕府の財政を支えてきた金山も、江戸末期にはすっかり衰え、明治になると日本が世界の仲間入りしたのにひきかえ、佐渡は金山とともに時代に取り残されていった。
佐渡の玄関口だった小木や赤泊の港も次第にさびれ、変わって両津港が発展するようになる。
このような新しい時代の流れの中で、島民は苦難の道を歩むが、そんな中でも多くの優れた人材を生み育て、歴史遺産をかたくなに守り、美しい自然を残してきた。
そして佐渡の文化の中には、流人たちがもたらした貴族文化(国仲地方)、金山の発展で、奉行や役人たちが江戸からもちこんだ武家文化(相川地方)、商人や船乗りたちが運んだ町人文化(小木地方)の3つの形があるという。
「佐渡は日本の縮図」などといわれるのも、気候・風土とともに、文化の面でもいえることのようだ。
江戸時代、越後をめぐる街道の整備は佐渡の金銀を、経済・交通の中心となった江戸へ輸送することにより開始され、大久保長安によって出雲崎・高田を経て信州で中山道追分を結ぶ北国街道の開設が計画され、元和年間(1615~24)に完成。さらに出雲崎、寺泊から長岡、六日町を経て中山道高崎宿を結ぶ三国街道が整備されたそうだ。
また、奥州街道白河から会津、津川、新潟、出雲崎に到達する街道が整備され、信州越え・三国越えとともに三道とよばれたという。
また佐渡金銀山を舞台に海運が隆盛を見せたのも江戸時代。
米は越後・出羽・酒田・津軽・越中伏木・能登から、材木は越後や秋田から積み込まれ、鉄や油、水銀、生糸、薪、炭、塩などは敦賀から回送され、人の往来には越後直江の津・出雲崎港が使われ、佐渡の小木港は慶長19年(1614)、出雲崎への金銀の渡海場に指定され繁栄期を迎えたそうだ。
④佐渡の交通事情について
だからと言って飛ばしてはいけない。おじいちゃんやおばあちゃんが突然出てきて道を横断、なんてことがあるからだ。
集落の道は速度を落とす必要があるのは言うまでもないが、怖いのは朝方。しかも4時とか5時の早朝である。
次に注意しなければならないのは地元軽トラ。
最後にガソリンの問題。佐渡のガソリンスタンドはたいてい6時、遅くても7時は閉まる。
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